長崎写真



路面電車の日



明治44年車両は乗れなかった。現役は昭和20年台の車両。




最新の限定レア車両に乗る。
ななつぼしのデザインの人デザインらしい。
長崎らしからぬ、長崎への妄想が膨らむ電車デザイン



Echo and the bunny men のbring on 〜のPV(この曲ばっかり聞いてる)っぽいって思って撮ったけど、帰宅してPVみたら全然違った...イメージはこれなんだよ




歩けるだけ中央部を歩き回る
お店がいろいろ変わっていて変わらぬものは変わらず
なぜ自分が長崎を離れたのか、離れたいと思ったのか
少し思い出した。今回の帰省は結局最後まで帰省した
感覚に戻れず、どこを歩いてもなんだか自分だけが
取り残されている感覚で、水に溶けない油みたいな
長崎弁もなんだかうまくしゃべれないし
お店の人や相手が「ああ」って思ってる感じが伝わったし
そうか、もう長崎にも居場所なくなったんだなあって。



今回の帰省の目的はおばあちゃんに会う、それだけだ
直接会話はできないかもしれないけど、私が勝手に話しかけることはできる
昨年帰省した際、おばあちゃんに、とても悲しいことがあってねって
離婚して、とても好きな大切な人だったんだけどうまくいかなくて
今は離婚してとても辛いんだって一方的に話しかけて泣きじゃくっていたら
ミトンしたおばあちゃんが頭撫でてくれたこと思い出して
今回の帰省ではできるだけ笑って手を握って話しかけた。
母方の祖母は昨年と変わらず、でも手をぎゅーっとぎゅーっと
握ってくれて、体は温かくて、おばあちゃんのこと大好きなんだ。
おばあちゃん生きている間にできるだけいろんな話をするんだ
変なこと長く書いてしまった
父方のおばあちゃんは痴呆が進んでいてそれに対応する両親の姿が
なんだかとてもすごく胸が辛かったけど私は何もできなかった
私はなにができるんだろうか













山の上の病院からバスには乗らずに歩いて降りた
坂の上、山間部の家々は廃墟だらけで
写真に収めるのも憚られるほどだった
家を捨てた人、町に住む集落の人
なりかけの廃墟、朽ちゆく家、いつかの家
廃墟マニアは楽しいかもしれないが
住む方にとっては深刻な話だ。死体と住むようなものだ。
廃墟好きは廃墟を一瞬しか見ない
道行く人々、街を見ているとなんとなく
なぜ自分が長崎に住まない選択をしたのかを思い出して
かつて住んでいた好きだった場所はもう記憶の場所
そうしていろんなことは記憶の奥底に沈んでくんだな



ぜったい廃墟だと思ってたラブホテルニューけごんが現役だった件
延長30分300円(2人で)だよっつ































数年前よりさらにずいぶん遊具が減っていて
百貨店衰退を見ているとそろそろ浜屋の屋上も
怪しいものだ、気づいたうちに撮っておいた
珍しく動画にも収めてyoutubeに放流した

ポリスの見つめていたいのBGMで泣ける
いつだったか嬉しかったんだ、本当に、
私が追いかけているのは昔の記憶で
今の記憶じゃない追い求めているのは
目に見えるものに昔を求めている
たぶんわたしはプロジェクションマッピングみたいなことをやっている
くだらないのか、くだらないかもしれない
けれどそれは傷をなめる弱い弱いステロイドのようなもので
それをやることで今を生きられるのならそれでもいいんじゃないかな
もう絶対に戻れない、記憶に残った昔を映し出している
そういえば手塚治虫の漫画に、船の事故で
死んだ恋人の姿が網膜に焼き付いてしまって
どこに行ってもその恋人の姿が目に見えてしまう
なんて話があったなあ
なんだろうね、それでも生きているのは今のこと
何を考えたってその人の自由、何を考えているか誰も知らない
この目で見ているのは今日のこと、脳内に焼きついているのは過去のこと
起きるのは今日のこと、待っているのは明日のこと
いずれにしても自由、どこへ行くのかも何を考えるかも
でも私は少しあるこの感覚をうまく形にできず誰にも共有できずにいる
いろいろ考えた帰省だった。もう、旅行になるのかな