岩亀稲荷と岩亀横丁の由来




その昔、1850年代には関内の横浜スタジアムあたりに歓楽街がありました(港崎遊郭)。1867年に大火事が起き移転した矢先のさらに1872年、またもや大火事が起き、遊郭高島町に移転することになります。当時、高島町は開港して港と街が大きく開き始め、東海道から関内・野毛、保土ヶ谷宿へと結ぶ大きな街道でもありました。北から南へ向かって行く人、江戸へ向かって北上する人、山の方から海へ向かって降りてきて商売する人、様々な人や荷馬車などが行き交うその通りを岩亀横丁といいます。岩亀と名づけられた大きな理由、それは幕府によって設けられた巨大な遊郭「岩亀楼」の存在でした。開港した横浜港に降り立つ外国人相手の遊郭、三層櫓式の楼閣は昼も夜も大変に美しく、道行く人は皆目を奪われる巨大楼閣でした。岩亀楼には、後の世に唄や劇の原作にもなる有名な遊女、喜遊という一番の売れっ子遊女がおりました。喜遊はアメリカのペリー艦隊の軍人に引き上げられそうになりますが、拒んで自害します。そんな幕末の遊女気質を象徴する女性たちが岩亀楼に居たのです。




そんな岩亀横丁の一角に、遊女たちが病に倒れた時に静養する寮がありました。寮内には小さなお稲荷様があり、それが「岩亀稲荷」として信仰されていたのです。やがて遊郭もなくなり、港も移り、横浜駅桜木町の駅も無くなり、そして高架下のスプレー絵群も無くなり、現代はひっそりと静かな町に戻った高島町。岩亀横丁では現在もお稲荷様が信仰されており、奥まった場所にあるその小さな「岩亀稲荷」は、今は近所の人々に受け継がれ静かに管理されています。岩亀のお稲荷様を粗末にすると、必ず婦人たちに災いが起きるとか。




みなとみらいから線路を挟み、たまに道を間違えた観光客や地元の人が歩くだけで、夜も暗くひっそりとした道の裏にある岩亀横丁。岩亀楼の当主は埼玉県岩槻の人で「がんき」と呼ばれていたのですが、今も古びたホテルにその文字を確認できます。そんな横丁を歩いてもぱっと通り過ぎてしまいそうになるほどに小さなわき道の奥の奥に「岩亀稲荷」があるのです。ちなみに、ここから少し歩いた先に、652年から続く有名な神社「戸部杉山神社」があり、夏の例祭や盆踊りなど高島町・戸部地域の人々の信仰を集めていますが、それと対照的に、ひっそりと静かに存在するのが岩亀のお稲荷様。その歴史故に、多くの女性たちが密かに祈りに通っています。



私が岩亀稲荷を訪れた際も、若い女性が現れ線香をあげてさっといなくなりました。彼女の香水の花の香りと線香の粉っぽさが相まって、まるで風のように仄かに遊郭の情景が広がったようで、心地よい寒気がピンと背筋を伸ばしてくれたように感じました。



近くには大衆浴場「松島館」があり非常にいい湯で気持ちいいのです!二重の意味で激アツな銭湯!!。そして少し行った先には横浜(一部)のソウルフード、スタミナカレーの店、バーグ! 生卵落としてカレー食べて東海道伝って家に帰りましょう。あー戸部駅下のラーメンもうまかったなあ。岩のりが山ほど乗ってたの今もあるのかな。戸部はいいBARもあったし、有名な横浜の酒場「常盤木」もこの辺だよ。横浜駅まで自転車で余裕だし大好きな臨港パークも行けるし戸部いいなあって真面目な文章がただのいつもの日記に...横浜愛はここらで終わろう。(2017.8.20 YY)



岩亀稲荷でいただたチラシを貼ります。詳しくはこちら




岩亀楼亀遊/一龍斎春水

岩亀楼亀遊/一龍斎春水

岩亀楼烈女喜遊

岩亀楼烈女喜遊

女流講談特選 一龍斎春水 - 岩亀楼亀遊

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