およそ朗読と呼ばれているもの、

rottenlily2005-02-28

何かがしたいといてもいられない最近の私は、昨夜都内で行われた某朗読会に参加した。それは毎月定期的に行われているもので、会場は詩を読む人たちで埋め尽くされていた。私は一編詩を読んだ。他の15人の朗読も聞いたが、うすうす予想はしていたものの、やはりそこには、私の求める「朗読」は存在しなかった。
東京に進出して1年。およそPoetryReadingと呼ばれるものをうつらうつら聞いてきたが、私にはおよそ理解し難い、それらは一種の「流行」でしかなかった。正直耐えられない空間でしかなかった。詩の朗読とは、自己表現でも、人を驚かせるものでも、節をつけて読む言葉遊びでもなく、そこに言葉を浮かせる、詩を生起させるものだと思うんだ。まして傷の舐め合いではない。違う、違う、もっと震える空気のある何か違うもの。何なんだろう、私は言葉足らずで表現できないけど、それらは決して朗読ではない、と、私はその会場を後にした。一概になってしまうけれども、PoetryReadingというものは、芸術でありえないと私は思う。それがそれ自身を超えることが無いように、それはその自己の枠から抜け出せないただの傷の舐め合いにしか私には見えないのだ。そこには私の求める世界は無い。私は強い確信を持ってこの世界を去る。互いに傷の舐め合いをするくらいなら、私は一人でもう一度1から表現を見出す。誰に「あなたのは詩ではない」と言われようと、誰に無視されようと、私は一人で書いていこうと思う。どこをどう捻っても、PoetryReadingと呼ばれるものに表現は存在しない気がするんだ。朗読とは、表現とは、1から問い直してみたい。気が狂いそうになろうと、私は突き詰めていきたい。