無何

無何
     洸本ユリナ


耳が鳴る空に響くのはいつか忘れたあなたの歌声
懐かしい写真の記憶を貪り咽せて咳込み目が刺さる
駐車場の二つ前にあった喫茶店の茶色い天井が濁る
かつての椅子が闊歩する

生きれば生きるほど恥だと思った年月の何倍以上が恥なのか
未来ある者の時間に嫉妬するのは
私の苦労を認めないから
それがつまらないのは対象外だから
スマホが滑るのは指紋が消えかけているから
母の軽さを感じたのは不在を願ってしまったから

もう聞こえなくてもいい声を聞いている
フラッシュバックの命綱にしがみついて
口を出すことさえ憚られる世の中では
歳だけが揺るがない

詩歌同人誌 パレット20号載(2022.7月刊行予定)