末盛千枝子さん講演会

母親が行きたがっていた講演会へ代わりに行き、話を聞いてきました。
メモから文字を起こしたので、母親に送るついでにここにも貼っておきます(^^)
素敵なお話でした。画像の著作権は勘弁してー!
こういうときにさっと飛行機代とか旅費とか出してあげられるようになりたいなぁ(;;)
レコーダー無しでよく頑張りました。
明日はご褒美でアイスを食べよう。

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末盛千枝子さん 講演会  2012年12月15日14:00- 上智大学12号館
「どのようなことを美しいと思うか/絵本を通して教わったこと」


もくじ
■すえもりブックスの破産と今
■東京を離れ、岩手へ。そして3.11の地震
■父、夫、二人の息子
■絵本を届けるということ
■思い



■すえもりブックスの破産と今
本を出版するというのは大変なことで、いい本を出してきたつもりではありますが、息子達にキツく叱られてしまう程に、経営は酷いものになってしまいました。すえもりブックスが無くなってしまった後、皇后様やまどみちおさんの本について、文藝春秋の方が、「装丁も中身も一切変えずに、そのまま出版し続けます」と言って動いて下さったことは、本当に幸せなことでした。また、他の方も、「皇后様の本を出すなら、他の本もやらせて下さい」とおっしゃって下さいました。本の帯に、「この本は元はすえもりブックスから出ていたものです」とあったのを見て、出版人としてこれ以上幸せな事はない、幸いなことであると思いました。こうして今、現代企画室と復刊プロジェクトが存在しています。

■東京を離れ、岩手へ。そして3.11の地震
私は、東京の初台にあるカトリック教会のすぐそばに長年住んでいました。

カトリック初台教会(渋谷区)
本当に隣の建物で、辛い時は御堂で祈ったり、というように、普段から教会に守られているような生活を送っていたのに、ある日突然引っ越しをしなければならなくなってしまいました。「神様、どうしてこんな仕打ちを与えるのですか? もうお傍には居させてくださらないのですか?」と本当に悲しんでいた時、ある歌の歌詞を思い出したのです。「主は水辺に立った」というフォーク調の聖歌があります。この歌詞にある、『漁師が船を捨てる』ということは、ずっと続けてきたその生業を捨てるということなんですね。それを捨てて、神様の思召しについていきます、と。この言葉に、私は引っ越しの決心がつきました。
引っ越ししてすぐ、311の東北地方太平洋沖地震に遭いました。ラジオをつけましたが、まだその地域のことがわかりませんから、どのチャンネルに合わせてよいかもわかりません。どこかのチャンネルから聞こえてきたのは、その地域の避難先を繰り替えし喋り続けているもので、○○地区の人は○○小学校へ、というように、いくつもの小学校の名前等が流れ続けました。「子供達はこの世の終わりのような光景と津波を見たに違いない」と、心から涙が流れ、「私も何かしなければ!」という思いに駆られました。何もかもが流されてしまった避難先へ、私は絵本を届けたいと考えました。すぐに友人達に連絡を取り、「被災地に絵本を届けたい」と話しましたが、なかなかうまくはいきませんでした。それを見た息子達が助けてくれて、以前私が講演会で訪れたことがあった盛岡の公民館で、『311絵本プロジェクト』プロジェクトを始めることができました。

全国から届いた絵本
ぽろぽろと絵本が届き始め、最初は部屋の隅に置けるだけの量であったものが、1箱また1箱とどんどんと増えていきました。日本経済新聞の方が記事に取り上げてくださったことをきっかけに、最終的に今は23万冊という量の絵本が国内外から届きました。これだけの量の本が毎日届きますと、もう受領印を押すことだけでも大変です。元々公民館でボランティアをしていらっしゃった方や、集まってくださったボランティアのみなさんが手伝って下さり、まずは本を分類することからはじめました。絵本が入った箱にまず紙を貼り、番号をつけて順番に開けていきます。励ましのお手紙や誰から送られたものであるとか、そういったことも全てメモしながら、絵本の対象年齢別に分けて整理します。子供達が受け取ったときに少しでも喜んでくれるように、と表紙を拭いて綺麗にしたり、これらすべての大変な作業を、ボランティアの方がやってくださるのです。主婦の方やお仕事をされている方など、ボランティアのみなさんも普段の生活があります。ですから、皆さんは『働くのは必ず13時から15時まで』と決めて、テキパキと動いていらっしゃいました。だからこそ、プロジェクトは進んでいったのだと思います。ボランティアの方の中には、震災で親族を亡くした方も多かったのですが、まるで「待ってました」と言うように、目を輝かせて懸命に作業してくださったのです

3月11日に震災があり、3月末に動きはじめましたが、みなさんもご体験なさったように、その頃は毎日余震がひどく、本に埋もれそうな状態の中で作業が進みました。強い余震がある度に、ドサーッと本の山がなだれを起こします。またあの大きな地震がくるのかと不安になります。そんな中で私達の心を和ませてくれたのは、絵本と一緒に同封された手紙でした。こんな話をすると、今お聞きの皆さんには胸が痛い方もいらっしゃるかもしれませんが、印象的な手紙が沢山ありました。「孫が生まれたら絵本を読んであげよう、と思っていたけれど、娘も息子も結婚せず、結婚しても子供を作る気がないと言いますから、この本はもう送ってしまいます」という手紙や(一同笑い)、5歳位の子供さんが「ぼくがちいさかったときにすきだったえほんです」なんて書いているんです。5歳なのに、僕が小さかった時、なんて。

■父、夫、二人の息子
夫と結婚して、長男を授かりました。生まれる前、「障害のある子供が生まれたらどうしよう」と夫にいうと、夫は「どんな子供が生まれても、僕達の子供であることには変わりないよ」と言ってくれたのです。その時私ははっとして、自分がカトリックであるということを恥じたくらいです。夫はカトリックではないのに、私はカトリックなのにそのようなことを思ってしまった、と。そして、息子が1歳になった時、息子がレックリングハウゼン病という難病に罹っていることがわかりました。これは『エレファントマン』という映画の主人公の病気でもあり、ハンセン氏病のような様相になってしまう病気です。一方、次男はとても健康に育ちました。ある日、次男が6歳、長男が8歳の時、夫が亡くなりました。「病気の子供を抱えてやっていけるのか?」と不安で頭の中が真っ白になってしまいました。通夜の夜半、なぜかこんな声か聞こえた気がしました。「これからも難しいことは沢山あるけれども、その度に、それを乗り越えられる力が与えられる」と。確かにそんな声が聞こえた気がしたのです。そして、一人子育てをしながら、息子の病院へ通う日々を送りました。
 

『病醜のダミアン』舟越保武
父はダミアン神父の彫刻を作りました。こうして子育てをする私に対し、まるで父が「お前はそれでもダミアン神父の方がが美しいと言えるのか?」と言っている気がしました。私はずっと、父の事を許せないと思っていました。ですが、父はずっと私や孫のことを心配していたのです。夫が死んだ時、父が私にこう問いかけました。「明日、火葬場に子供達を連れて行くのか?」と。私は「連れて行く」と答えました。すると父は便箋と封筒を取って、子供達へ手紙を書きました。

「パパはもういない。死んですぐに魂がお空に飛んでいってしまったから、パパはあの青いお空に居る。焼かれるお棺に入っているのはただの抜け殻で、ちょうどセミの抜け殻のようなものだ。抜け殻を焼くのだから痛くない。パパはお空でお前達のことを見ている。」


妹の夫がベルギー人で、彼が私にこんなメッセージをくれました。
「あなたはわかっていると思いますが、あなたの人生は今までと同じではありません。失われたものは失われたままです。新しい人生が始まっています。また必ず笑える日が来ます。」と。
私は、こんな言葉に助けられてきました。

十数年前のある日、スポーツの時のちょっとした事故が原因で、長男は大怪我を負ってしまいました。病院に運ばれすぐに大手術となりました。「もうこのまま死んでしまうかもしれない」とも思いました。手術をしてくださった医療チームの人たちが、一人でも「ダメじゃないか」と思ったら、息子の命はなかったかもしれません。出血多量で18リットルもの輸血をし、18時間に及ぶ大手術の結果、息子は意識を取り戻しました。手術後でしたので筆談をすると、息子は「このスポーツはとても安全なもので、こんな大事故は滅多に起きるものではない。きっとぶつかった相手の方が辛いに違いない」と書きました。お医者様からは、息子は脊髄損傷で下半身が一切動かないということを知らされました。私はこの日、このまま病院に泊まって長男と一緒に過ごしたかったのですが、迎えに来てくれた次男と、再婚したばかりの夫に、それを言い出せないまま病棟を出ました。そして、時が経ったある日、長男がポツリと一度だけ弱音の言葉を吐いたことがありました。「あの日試合に行かなければこんなことにならなかった」「病院で意識を取り戻したあの夜、お母さんに泊まってって言いたかった。そう言えばよかった」この日以外に息子が弱音を吐くことはありませんでした。私は心から悔やみました。私の心の弱さを感じました。その後、息子はリハビリセンターに移り、下半身を動かすリハビリを開始しました。付いてくださった担当の看護士の方はとてもハキハキとした中年の女性の方で、長男を見てこう言いました。「あなた、これから一生歩けないってわかってる?」私は「なんでそんなことを言うのだ!」とびっくりしました。長男は目に涙をいっぱい浮かべて、頷きます。看護士さんは「なら、話は簡単。これから本当に辛いけど、大丈夫。必ず動くから。」と力強い言葉を下さったのです。

■絵本を届けるということ


第二次世界大戦後のドイツで、子供達に絵本を届けるという活動をなさったイェラ・レップマンという女性がいます。ドイツでは、ナチスによって殆どの絵本が焼かれてしまっていました。彼女は「子供達のためには絵本が必要だ」と、世界中に手紙を書きました。沢山の絵本が世界中から集まりましたが、ベルギーからは「ドイツにはひどいめにあわされた。そんなドイツの子供に対してそんなことはしたくない」と手紙がきました。彼女は、ベルギーにもう一度手紙を書きます。「新しいドイツを担う子供達が、もうそんなことをしないように、どうか絵本を送っていただけませんか?」すると、本当に宝物のような絵本がベルギーから届いたのです。
 私は今、岩手で地元の人間として働ける事が嬉しいと思っています。以前、岩手の大学に通っていた時の卒業証書が出てきたのですが、そこに『舟越千枝子』という名があるのを見た時、こうしてまた岩手に帰ってきたのだと感じました。北の海で皆と一緒に働きなさい、と神様が言ってくれたように感じます。
 ある時、一酸化炭素中毒で父親を失い、髪の毛が真っ白になってしまった子供と話すことがありました。彼が「あの時死んだのかな?」と聞いてきました。私は適当な答えは返せないと思い、「そうよ、あの時死んだのよ」と答えました。すると彼は、「そうかーそうなのかー」と頷きながら去っていきました。突然、大切な人を取り上げられた人の悲しみがあります。時間を与えられ生きている人間の責任があります。私は自分の絵本プロジェクトを通して、子供達へ「あなたのことを思っていますよ」というメッセージを伝えたいと思っています。震災後、被災した私のところへ色々な人が来ますが、親や家族を失ってしまった子供達のところへは誰も来ません。震災直後の4月初旬に、最初の絵本を届けに岩手県宮古市を訪れました。雪が降る被災地に立ち、目の前に広がる惨状を前に「今、私はここに居るのだな」と感じました。



2012年4月4日岩手県山田町(共同通信)
震災後、素足に草履でお経を上げながら被災地を歩いたお坊さんがいらっしゃいます。絵本を届けに岩手県山田町へ行った時、その方がちょうど山田駅のところにいらっしゃいましたので、少しだけお話をさせて頂きました。駅といっても全てが崩れた瓦礫の山でした。山田町は津波の後、大火事が起き、大部分が流失あるいは焼失していました。彼は、お経を上げながら三陸の海岸を歩き続けていらっしゃいました。夜はテントに寝泊まりし、まだ津波の死体が浮いているであろう海を見ながらお経を唱え続けました。「自分にできるのは何だろう、と考えました。祈る事しかできない」と。
宮古市の保育園は新しくできたばかりの建物で、丘の上にあったこともあり震災後でも残った建物です。そこで絵本の読み聞かせをしたのですが、子供達は避難所から保育園へ通っていました。読み聞かせの間、子供達の輪にも加わらずポツンと一人座っている女の子が居ました。彼女は母親を失い、避難所でもずっと一人で入り口に座り母親が来るのを待っているのだそうです。丘の上からは、津波で家が流されていく光景が見えていたといいます。子供達も、自分達の家が流されていくのを見ていたのでしょう。
絵本を渡す時、「好きなのを持っていっていいよ」と、子供達に絵本を選ばせるようにしました。子供達がそれぞれに絵本を持っていく中で、ある男の子が一生懸命絵本を探し続けていました。「トーマスはどう?」とか「こんなのは?」とか色々と絵本を薦めますが、「ちがう」「これじゃない」と言って絵本を探し続けます。やがて最後に彼は絵本を見つけるのですが、それは『ちびくろサンボ』という絵本でした。これは、自分が小さい頃から気に入っていた本なのだと彼が話してくれました。大人である私が本屋に行って本を探している時、好きな本がないからといって、店員さんに「そんなのより、こっちはどうですか?」「こんなのもおすすめですよ」とか言われたら嫌ですよね。私は、彼に対してなんて失礼なことをしたのだろう、と思いました。
絵本を探している時、ある子供が「このわたなべしげおっていう人、沢山本を出してるんだよねー!」と友達に話しているのを聞きました。きっと、お母様が読み聞かせをする時等に、きちんと作者の名前も言っていたのでしょう。被災した子供達は、おやつを食べながら話をしていました。「ねぇ、お前のおじいちゃん宮古だろ、生きてるの?」「死んだ」と。こんな会話が、保育園のおやつの時間に話されているのです。心からショックを受けました。
陸前高田の市民体育館は避難所に指定され、大勢の方が避難していたのですが、そこに津波が来てしまい、小さな扉からどっと波が押し寄せ、洗濯機のように水が攪拌されてしまい、生き残ったのは1・2人だけだそうです。その入り口のところに、ネズミ色のぬいぐるみが落ちており、思わずハンカチに包んで持って帰ってきました。綺麗に洗って乾かすと、それはピンクと赤色の牛のぬいぐるみでした。多分、子供が逃げるときに抱きかかえてそのまま被災してしまったのでしょう。私はこのぬいぐるみを預かっているつもりで大事にとっています。
『わたし』」という絵本があります。小さい子供のために出版された絵本です。


わたし (かがくのとも絵本)

わたし (かがくのとも絵本)


わたし
おとこのこからみるとおんなのこ
あかちゃんからみるとおねえちゃん
おかあさんからみるとむすめのみちこ
おとうさんからみるとむすめのみちこ
おばあさんからみるとまごむすめのみちこ
おばさんからみるとめいのみっちゃん
(中略)
ほこうしゃてんごくではしゅうだんのひとり

一人の人間が亡くなるということは、その関係性を持ったまま地上から姿を消すということなのです。
昨年、盛岡にモスクワ合唱団のみなさんが来られ、一人で行ってきました。最後にお客さんも一緒に全員で歌ったのは「浜辺の歌」でした。『あしたはまべをさまよえば むかしのことぞしのばるる』隣に座っていたご夫婦と「本当に本当に良かったですね」と言いながら会場を後にしました。

■思い
この絵本プロジェクトで全国から届いた絵本のうち、一番多かったのはどの絵本だと思いますか?正解は『はらぺこあおむし』です。もう、一家に1冊はあるんじゃないかってくらいに沢山集まりました。気になって本屋さんに行って確認したところ『第505版』ってあったんですよ。そして、この次に多かったのは『100万回生きた猫』です。「俺は100万回生きたんだぜ」と自慢するどらねこが、白い猫に恋をして、子供ができて暮らしますが、最後に白い猫が動かなくなってしまいます。どらねこはおいおい泣いて、もう決して生き返りませんでした。という話ですね。余命幾許もない友人に対して何かプレゼントできる本はありませんか?と聞かれておすすめしたのがこの本です。死ぬ間際まで毎日何回も何回も、夫に読んでもらっていたそうです。作者である佐野洋子さんは詩人の谷川俊太郎さんとご結婚なさって数年後に離婚なさったのですが、佐野さんの葬儀の時に谷川さんにお会いしました。「別れた奥さんが死ぬってどんな気持ちですか?」ということを、私が聞く間もなく、教えてくださいました。「別れる時は修羅場だったけれども、大好きだったから悲しい」と。

私が再婚した夫は今、要介護5でホームに入所しています。お医者様から、自宅での介護は無理であると言われました。ホームに行くと、夫はしゃべることはありませんが、ただにっこりと笑ってくれます。夫婦の別れは死だけではありません。認知症でボケて会話できなくなるのも別れの一つであると思います。再婚した夫は哲学者なのですが、哲学者がボケると大変なんです。トイレにベルを置いておき、用を足したらベルを鳴らすようにと言っていて、ベルが鳴ったので「トイレしたの?」と聞くと「必ずしもそういうわけではない」って答えたんです。ボケても、私の夫であることに変わりはありません。



人生に大切なことはすべて絵本から教わった

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ことばのともしび

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ピアノ調律師 (末盛千枝子ブックス)

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すばらしい季節 (末盛千枝子ブックス)

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