ここのところ、まるで日々のように子どもたちが殺されるニュースが相次いでいる。殺された、子ども。携帯していたはずの防犯ベルは電池切れで。住宅街で悲鳴をあげても誰も気にしない世の中で。
忘れかけていたある事件を思い出そう。私の故郷、長崎市で起きた少年事件。犯人は中学1年生の男の子。家電量販店のゲームコーナーで、4歳児である駿ちゃんは12歳のお兄さんに誘拐され、繁華街そばの立体駐車場の上で陰部を切られ、屋上から突き落とされた。犯人は私の弟と同級生で、私の家の近くに住んでいた。どう考えても他人事とは思えなかった。
そしてその1年後、市こそ違えど同じく長崎・佐世保市で、小学校6年生の女の子が同級生を学校内で刺し殺すという事件があった。少女はHPを持っていたが、そこには憎しみや苦しみが綴られていたのを覚えている。同級生内での些細なすれ違いから産まれてしまった事件。何故少女は同級生を殺さなくてはならなかったのか?
衝動にかられたのか。少年らが病んでいたのか。違う、彼らは普通の子どもだった。平成にこの世に生を受け、成長し、皆と同じく、青年期へと足を進めるところではなかったのか。どこにその「衝動」が発生する理由があったのだろうか。
話を子ども殺しへと戻そう。ペルー人が小学1年生の子どもを殺し、箱に詰めて捨てた。塾講師が生徒に殺意を抱き、教室内で刺し殺した。何故子ども達が狙われる?どうしてこんなにもこのような事件が相次ぐのか。
弱き者への矛先?
何が衝動を殺意へと変えたのだろうか。社会か、世帯か、友達か、メディアか、インターネットか、情報か。日本が少し、歪みはじめている気がする。特にこの10年のあいだに。普通の子どもが殺人者となり、また、普通の子どもが誘拐され、殺される。私にはどうしてこのような事件が起きるのか、分からない。オトナの耐震偽造問題事件に隠れて、事件がひとつ、またひとつと、子どもが殺されてゆく。それは昔からよくあった事件なのか?私は大学で学んだ児童心理学・発達心理学を思い出しながら、事件を考察してみるが、メディアの記事だけでは何もわからない。そう、何もわからないのだ。私はペンを走らせざるをえなくなった。子どもの詩ばかり、頭に浮かんでくる。携帯していたはずの防犯ベルは電池切れで。住宅街で悲鳴をあげても誰も気にしない世の中で。死んでいった子どもの悲鳴が耳から離れない。「子ども」の詩を書き綴っている。
この犯罪は、なくならないだろう。
弱き者への矛先、そして衝動。沸騰した脳みそは物事を正常に判断しない。欲求、衝動が先を争って行動を支配する。それは誰にでも「ありえる」ことなのだ。ただそれを留めていた釘が、欲望に錆びて抜けてしまった。そして衝動が走り出す。犯人になるであろう不審者は、世界のどこにでも潜んでいる。
ただそれに対する術が見つからないのだ。
あなたがもし、どこかで防犯ブザーの音を聞いたらどうするか。何かあったかな?としか思わないだろう。或いはエラーでも起きているんだろう、と、さっさとその場から離れるのではないか?
住宅街でもし、あなたが悲鳴を聞いたなら、現場に向かうだろうか。誰かが対処してくれるさ、そう思わないか?そういう実験結果が社会心理学にもある。「誰か他の人がしてくれるだろう」そう、普通の人にとって「事件」とはメディアで接する「他人事」であり、まさか自分が、近所の人間が、事件に巻き込まれるとは誰も思わないのだ。
違う。事件はもう私たちのすぐそばに来ている。
私達はそれに対処せねばならないのだ。事件は他人事ではない。
もし明日、自分の子どもが不審者に連れ去られたら?
もし明日、通勤中の列車で爆弾テロが起きたなら?
それに対応する術を、私は知らない。
この国の白髪のお偉いさんも、きっと知らない。
それでも今日また一つ、死体が見つかるそんな世の中なのだ。